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Tea break (Translated 小休憩(2026.03.26))

     It was tough.      Truly tough.      It was tough, very, very much.      So, I have done my one-year special practice/training of Buddhism to be a Buddhist monk, and I eventually became one. I mean, technically, I have already been a monk since the end of last year, but that is not the point here. Well, it was quite tough both physically and mentally. What I feel for now is gladness and appreciation. Quite a lot of things had happened. Of cause there must be some misunderstandings and frustration and palpable atmosphere. I can even say that communications, relationships and the existence of people are more annoying and exhausting than actual training. They might be a part of the training, but I know places where we do not have to really care about them, so I do not know. I have no words. I have nothing to say. I feel kinda powerless, but it might be something that I had to overcome… However, I became a teacher (religious t...

小休憩

 いや、大変でしたね。 大変です。 本当に大変でしたよ。 ということで、一年間の仏道修行を納めてきまして、晴れて僧侶になりました。まあ厳密な話をすると既に去年の暮れには僧侶ではあったんですけど、まあそんな話はいいんです。いやぁ、肉体的にも精神的にも苦しいものではあります。とりあえず乗り越えれたことに対して喜びと感謝ですね。いろんなことがありました。人間が二十四時間一緒にいるとそりゃいざこざもありますし、我慢することも多くあります。むしろ仏道修行そのものよりも、人間の存在が疎ましくなる瞬間の方が多いかもしれませんね。なんとも言えない、なんともやるせない感想ではありますが、正直そんな部分も大いにあるとは思います。しかしながら宗教教師となってしまい、かつ私の宗派は利他をしっかりと主張するタイプの思想が強いので、むしろ今後積極的に人間と関わることになるという。結構勉強すると、賛同できる思想も多いので好きではありますが、人間がわからない私からしてみたら、今後生きていく中で難しいなと思う部分も多くなるかもしれないなと思ってしまいますね。難しい。 色々勉強させていただきましたが、面白いですね。夏の自坊研鑽期間でもブログは書きましたが、やはり色々勉強することで見えてくるものがありますね。いや、私が勝手にみてしまっているだけではあるのでしょうが、しかしながら私にとっては面白い思想や賛同する思想などなど、とてつもなくお勉強になりました。詳しく何かを書くことができないのですが、もし、何かしらお話しできる機会があればまた書くなり話すなりしますね。 今回は小休憩なので真面目な話はあまりしたくはなくて、とりあえずなんとなくのお話ができたらと思っています。あと今後の展望とか?にゅーいやーれぞりゅーしょん、というやつですね。新年度に向けて。 私、文章書くのも好きなんですけど、喋るのも結構好きなんですよ。なので、ブログと並行してその内容のポッドキャストをし始めてもいいかなと。あと既に書いている文章の英訳とかも進めていきたいなとか思ってます。ポッドキャストってどうやってやればいいんでしょうか。わかんないっすねぇぇ。どのプラットフォームがいいのか。Youtubeなのかな、やっぱり……とりあえずやってみるだけやってみますね。 あと、秋から大学院に行けたらと思って努力中です。いやぁ、念...

「藁にでも縋る気持ちがなければ宗教なんぞに手を出さないだろう。」 私は少し、考える。考えた後に、答える。 「幸せそうで何よりです。」 前回「宗教にでも縋りたい」という記事で三大宗教についてなんとなくの所感を書かせていただいた記憶があります。記録もあります。その記事の中で一点訂正したいところがあります。でもその前に少しだけ簡単にお勉強したことの中で面白いなと感じた部分を少しだけ紹介します。 仏教はとてつもなく変化の激しい宗教であるということがわかりました。インドで発生した初期仏教と日本仏教では、ユダヤ教とイスラム教くらいの違いがあるように思えます。そこまでは大きくないか。否、過言とも言い切れない。 そもそも仏教は無神教として誕生しました。当時の主流の宗教であったバラモン教に対するアンチテーゼのような形で発生したようです。基本的には神や仏と言った話ではなく、この世の真理を探求し、その探究に対する自身の精進について語るものであったそうです。その無神教が有神教へと変貌したのは、永い時間をかけて他宗教を吸収し、融合したからだとされています。面白いですよね、絶対的存在を否定した思想が、信者の手によって絶対的存在を肯定する思想に変貌しているのですから。「何もない」は人間にとって不安でしかなかったのかもしれません。みんな、何かが有って欲しいのかもしれません。欲張りですね。絶対的であることは、なんとも虚しいことであるにもかかわらず、それに安心を覚えるのです。宗教は心の支えになることが多いです。現代だと特に、個々人の安心感を得るために科学と折り合いをつけながら解釈と理解を繰り返して信じている人が多いと思います。昔はその思想そのものが事実であり、真実でありましたから、疑うとかそういう話ではなく、今の私たちにとっての科学のようなものだったと思いますが、現代はそうもいきません。私個人としては科学も宗教のようなものだって昔からずっと主張はしていますが。 さてさて、前回の記事で私が訂正したい点として、宗教と政治権力の関わりかたの部分です。 キリスト教は政治的側面がとても強いという記述を残した記憶があります。イスラム教もイスラム教国家があるからこそここまで存在感を示していると書いた気もします。それぞれ事実であり、まだ私はその記述をひっくり返そうとは思いません。私がひっくり返したいのは、仏教について...

自己研鑽期間という名の夏休み

どうもこんにちは、修行僧どす。 京都で修行僧をしとるもんどす。  7月末から8月末まで夏季自己研鑽期間です。一旦の仮釈放です。仮釈放とはいっても、いくら品行方正でも期間が終われば強制収監ですが。  なんともなんとも、1日1日が長かったですね。  やってられないです。  正直、いつ辞めてもいいなら辞めています。辞めたら不都合があるから辞めてないだけです。まあ、その不都合の方が修行よりもめんどくさいということですね。ということは、耐えられなくはないということです。まあ、定型発達者の戯言なので、流していてください。  さてさて、修行はそれじゃあ何をしてるのかと聞かれると、正直自分でも良くわかっていません。簡単なスケジュールだけでも紹介しますね。  そもそも、私が修行を行っている道場は三学期制です。学院と名を打っているので、そこそこ教育機関の真似事をしています。三学期のうち、一学期が終わり、今夏季自己研鑽期間に入りました。一学期は何をしたかというと、総括していうと、修行のイントロダクションです。というのも、私の宗派の僧侶になるために必要な修行は四度加行と言って、100日前後行えば済むものです。まあそれが100日以上あると言われたら誰もしないでしょうし。とりあえずその100日が終われば灌頂があって、見事目標達成です。それが二学期に行われます。ということは修行の本番は二学期ということになります。歩歩是道場と言われて仕舞えば、修行に終わりなどないのですが、皆さんがとりあえず思い描く修行のような修行はこれです。それでは、何も知らない私のような愚者が愚直に頭から突っ込んで四度加行を無魔成満することができるかと言われると難しいと思われます。(四度加行をしたことがないので、何も言えないところもありますけど)少なくとも四度加行を終えたとしても、通常の僧侶の業務がこなせないと思われます。だからこそ、一学期がある。一学期で最低限の知識と経験を入れておいて、その上で四度加行を行えばとりあえず生き延びれるだろうという甘い考えです。甘いですが、食べれないほど甘くはありません。少し口に入れようと思えるくらいには甘いです。だから私は間違って口に運んでしまいました。甘いですね。甘いです。食べれはしますが、すぐに吐き出したくなるくらいに甘いです。我慢して飲み込めば、あとは後味を他の味で埋め尽くして仕舞えばい...

言葉とステレオタイプ

   「男女差別」という言葉を聞いて何を思い浮かべるか。  次の言葉を読む前に少しだけ立ち止まって考えて欲しい。  今思いついたのはどのようなものだろうか。  男女共同参画社会基本法、公職選挙法、などであろうか。それとも男尊女卑、看護婦、「男は度胸女は愛嬌」、などだろうか。それともはたまた、女尊男卑、主夫、などであろうか。  私はラディカルなノンバイナリーなので、そもそも男女の区切りというものが問題であると考えているが、それはさておいて、皆の思いついた中で被差別者は女性だっただろうか、それとも男性だっただろうか。  メディアバイアスが大きい現代では、圧倒的に男女差別における被差別者が女性であることが多い。そのため、「男女差別がある」と聞いた時に咄嗟に被差別者を女性だと思ってはいないだろうか。セクハラが存在すると言われた時に被害者が女性であると考えてはいないだろうか。痴漢が起こったと聞いて、現場を見る前に加害者が男性であると思ってはいないか。性暴力があると聞いた時に被害者が女性であると連想していないか。  ヒューリスティックが人間には備わっている。これは経験則の一種であり、あらかじめ統計的に可能性の高い方を前提とする能力と形容することもできるだろう。だから事件として聞くことの多いパワーバランスをもとに差別のステレオタイプ、雛形を頭の中で作り上げてしまっているのではないだろうか。では、この雛形は果たして有用であろうか。  レイプの被害者であろうとするには、法改訂前には女性である必要があった。現代は、異物を挿入される必要がある。しかし、レイプはそのような形でのみ行われるのだろうか。  性別は人間が作り出したものである。そこには恣意性があり、そこにはステレオタイプがある。弱いものとして線引きされる「女性性」とたくましいものとして描き出される「男性性」が存在する。これらの社会性は男性女性を単なる生物的特徴のみならず、社会的役割まで適応させる。男性は男性であるだけで逞しいものであるために、レイプの被害者になり得ないと考えられていたのではないか。男性は男性であるだけで自身の身を自身で守れると思われていないか。男性は男性であるだけで性欲が強いと思われていないか。男性は男性であるだけで筋肉量が多いと思われていないか。男性は男性であるだけで繊細なことができないと思われていないか...

アメリカ旅行に行ってきました(アラスカ・アンカレッジ)

 アラスカ・アンカレッジ(Anchorage, Alaska) さて、それでは各都市で起こったことをそれぞれ書いていければと思う。どれも「楽しかった」の感想で総括できてしまうので、正直何か深い感情があるわけではないのだが、なんとなくのシェアである。本当に私個人が楽しいだけのシェアである。 まずはアラスカについて書こうと思う。実際の時系列ではシカゴの方を先に訪れたのだが、アラスカとシアトルの後に再度訪れているので、そこでまとめて書こうと思う。ということでアラスカである。 アラスカである。ニューオーリンズの代わりとなったアラスカである。極寒の地アラスカである。カナダを挟んだアラスカである。シアトルと一時間、ニューヨークとは四時間の時差のあるアラスカである。アンカレッジが主な都市とされるアラスカである。アラスカである。 本来ならニューオーリンズに四泊する予定だったのだが、アラスカに二泊のみとなってしまった。残念である。シカゴからミネアポリス経由でアラスカへ向かった。ちなみにミネアポリス空港は日本語の案内も存在していた。むしろ中国語が表記されていなかった。個人的には話者数ランキング的にも中国語の方が効率が良いとは思っているのだが、局所的に一部の言語話者の訪問が多い場合にはその限りではないとも思うので、日本人観光客がやたら多いか、日本人観光客がやたら世界中に多かった時の名残りかの二択であろうと思う。ちなみに空港の中にスヌーピーが沢山いた。可愛かった。特に何かを口にしたわけでもないので、ただただ単純に待ち時間を贅沢に使った空港散歩を行ったのみである。そのごアラスカに向かう飛行機に乗った。機内で特に何をするわけでもなく、映画を見たり、本を読んだりといつもの機内の過ごし方と同じ方法で過ごした。 さて、アラスカに降り立ったのは夕方、17時ごろである。ホテルまでバスを使って移動する。空港から出てすぐにバス停があり、一本逃した。目の前で発車である。この状況、何度目であろうか。特に雨も降っっておらず、特別寒くもないので駅で他のバスを待っている人と話しながら過ごした。シカゴでは氷点下二十度を体験しており、零度はそこまで寒くないという錯覚に陥っていた。もう一つのバスを待っている女性の方は仕事の関係で訪れたらしい。街の方ではなく、医療センターに用事があるため、シャトルバスを待っ...

アメリカ旅行に行ってきました(とりあえず総括)

今回は楽しい記事です。 この度、睦月から如月にかけて三週間程度アメリカに遊びに行ってきた。最終的に訪れたのは、シカゴ、アンカレッジ(アラスカ)、シアトル、ニューヨーク。目的地決めでも一悶着あったのでこれについてもまたお話しさせてほしい。また、今回は一人旅だった。現地の友人には会ったが、渡米そのものは一人で行った。楽しかったよ。旅行はやはり楽しい。 そもそもなぜアメリカかというと、高校時代に知り合ったアメリカ出身の友人に会いに行く話をしたためである。私が大学に入ってすぐの頃からずっと遊びに行くと言い続けていたのだが、パンデミックやら海外留学やらで時間ができずに行けずじまいだったところ、暇ができてしまったので勢いで行くことを決めた。少し家から出て息継ぎがしたかったというのもあり、アメリカのvisaが都合よく残っていたとか、他にも沢山要因はあるが、主な目的として語っているのは、友人に会うことであった。その友人はシカゴに住んでいて、私はとりあえず何も考えずにシカゴに飛ぶことにした。流石に帰りの便を予約しないという暴挙はせず、シカゴ→ニューヨーク、ニューヨーク→東京の便も予約した。流石にね。時期が時期だったのか、不自然に安かったのもある。とりあえず、アメリカ行きがこの瞬間に確定した。同じことを2度いうのもあれだが、楽しかった。友人に三週間アメリカに行ってくると伝えると、短期留学だと言われたが、さして英語が上達した感覚はないので、今更三週間程度行ったところで上達するような能力や顕現するポテンシャルは僕にはもうないようである。残念。だがとても穏やかで、しかし同時に刺激的な旅だったので満足度は高かった。そしてこれが私が修行に入る前の最後の海外旅行になった。流石に如月・弥生にはもう海外旅行はしない。お金がない。現時点でマイナスである。ちなみに、今回の旅で初めてe-simというものを使ってみた。結構使い勝手が良い。ルーターを持ち歩かなくて良いのはありがたいことだ。失くす恐怖を軽減できる。 ここではとりあえず総括を書くことができたらと思っている。楽しかったのでシェアしたい。というかただただ話したいので。細かい話はまた別の記事で話すことができたらと思う。 私は東京→ロサンゼルス→シカゴ→ミネアポリス→アンカレッジ→シアトル→シカゴ→ニューヨーク→東京の順番で飛行機に乗った。このうち、ロサン...

新年のご挨拶

 明けましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いいたします。 とは言っても今年のほとんどを修行に費やすのでこのブログは一年程度お休みになるのですが。 そして新年の挨拶にはとてつもなく遅い投稿になってしまいました。 旅行や家のお手伝いなどで少しバタバタしてしまっていたので申し訳ない。 今、ブログを再開して、記事をいくつか書こうと思っているので時間指定の時差投稿で一週間に一つ投稿できればと思っています。いくつ記事を用意できるのかは分かりませんが、修行に入った後にも少しだけ投稿が続くくらいの量を書くことができればと願っていますが、いかんせん筆が遅いのでおそらく三月には投稿が終わっている気がしています。 ともかく、皆様の健康を祈って。 一年間生き延びることができることを祈っております。

色彩をもつということ

 少し考えたことがある。色の持つ意味とはなんだろうか。 「色に性別や感情のイメージを持たせる行為に対して良い感情を抱いたことがあまりない。と言いたいのだが、文学や芸術において、象徴的・隠喩的に色を使うことで表現することは多く、それを当たり前として、コモンセンスとして行なっている。ならば、色の持つ意味を否定し、その象徴性を削る行為は果たして意味的世界においての豊かさに繋がるのだろうか。色が何かを象徴しているということを否定してしまうことがより淡白な世界を作り出してはいないだろうか。」  私は基本的に、利便性などの話はとりあえず棚に上げた上で、性別と色のつながりをあまりよく思っていない。ピンクシャツの話のように、誰がどの色を使っていようが、そこにアイデンティティとのつながりはないと考えたいと思っている。しかしその主張は、服は当事者の自己表現であると言う主張とぶつかる。そして私は両方とも理解できる。ではこれは色の問題なのだろうか。それともただ単にヘイトを向けるなと言うだけの話なのだろうか。  しかし、どうだろう、黒という色は「邪悪」「悪役」という印象が大きいだろう。白という色の印象は「天使」や「清い」印象につながることが多いのではないだろうか。映像作品や絵画などによく見られるこの印象を使った表現は果たして、その色を日常的に使う人間に対して少しの不自由も与えていないのだろうか。黒色が白色に対照的に映し出され、あまり前向きではない印象を持つことに対して快く思っていない人間がいないわけではない。  色は印象を持つ。色々な印象を持つ。しかしその印象は果たして色が持っても良いものなのだろうか。色は、より中立的な立場であるべきなのではないか。より万人に向けたものであるべきなのではないか。色そのものが個性であると、その色を他の人間が使うことでその印象を中身を見ずとも断定されてしまうのではないか。  色が印象を持つことは、全員にとって当たり前であるように感じる。男性と女性のトイレのマークの色などさまざまな場面で議論が行われているが、しかし、色に印象があるという大前提は崩れていないように感じる。「色には印象があるが、それには害もある」と。なるほど、しかし色はそこまで大きな存在なのだろうか。  さて、黒色は何に使われているだろうか。私が思いつくものには、礼服である。ここでの黒色は決して否定的...

小休憩

 しょうもない小休憩が続きますね。ごめんなさいね。 基本的にこれ私にとっては長文 Tw1tter なので、本当にしょうもないことを書きたれてるだけなんです。 今日なんとなく書きたいのは、私が別に誉のある人間じゃないし、できた人間でもないということ。金銭主義が嫌いだからって何をしているわけでもないし、自身で何か活動しているわけでもない。ただ独り言呟いてるだけなんです。でも愚かで欲深いので、一丁前に何もせずに過ごせたらいいなとか、日々の生活が困らない程度に人生何もせず生きていきたいなとか、働きたくないなとか、好きなことだけして生きていきたいなとか思うわけです。 Youtu6erと言われる職業に「楽しそうだな」という理由だけでなりたいとか思うこともありましたし、ブログとか自分の書いてる何かが収入源になってくれないかなとかいう甘えもありますし、何か不労所得とかで生きていけないかなとか思うこともありますし、旅行記とか言って旅行してそのエッセイ書いてそれが本になって一発当たるとかいう大夢ないかなとか思うこともあります。バカです。はい。 甘いんですよね、そもそもの考えが。でも楽したいのは事実ですし、正直、人類皆楽したいんじゃないかなとか思ってしまってます。楽がしたいというよりも、したくないことはしたくないんじゃないかなって。僕は心の理論がまだ十分に備わっていないので、僕のしたくないことは他の人もしたくないと思ってしまうこともあるのですが、それが原因で、この世の誰も働きたくて働いてる人間なんていないんじゃないかなとか思う時があります。その職業の中身がたとえば物書きだったら、別に働きたくて何かを書いてるんじゃなくて、何かを書きたくて、でも資本主義国家では何か職を手に入れるべきであって、好きなことを職業に致し方なくしている、みたいな。別にお金なんてなくても生きていけるのであれば、好きなものを好きな時に書いてそれでいい、みたいな。私が小説家になりたいとか、物書きになりたいとか、研究者になりたいとかいうのは、そういう理由なんですけど、他の人間もそんな理由なんですかね。だったら親近感が湧きますね。みんな揃って欲深いですね。ならばもう、全員が一緒なら、比較する対象がいなければ、欲深さなんてものは見えないものになってしまいますからね、僕は欲深くなくなることができるかもしれませんね。 さて...