自己研鑽期間という名の夏休み
どうもこんにちは、修行僧どす。
京都で修行僧をしとるもんどす。
7月末から8月末まで夏季自己研鑽期間です。一旦の仮釈放です。仮釈放とはいっても、いくら品行方正でも期間が終われば強制収監ですが。
なんともなんとも、1日1日が長かったですね。
やってられないです。
正直、いつ辞めてもいいなら辞めています。辞めたら不都合があるから辞めてないだけです。まあ、その不都合の方が修行よりもめんどくさいということですね。ということは、耐えられなくはないということです。まあ、定型発達者の戯言なので、流していてください。
さてさて、修行はそれじゃあ何をしてるのかと聞かれると、正直自分でも良くわかっていません。簡単なスケジュールだけでも紹介しますね。
そもそも、私が修行を行っている道場は三学期制です。学院と名を打っているので、そこそこ教育機関の真似事をしています。三学期のうち、一学期が終わり、今夏季自己研鑽期間に入りました。一学期は何をしたかというと、総括していうと、修行のイントロダクションです。というのも、私の宗派の僧侶になるために必要な修行は四度加行と言って、100日前後行えば済むものです。まあそれが100日以上あると言われたら誰もしないでしょうし。とりあえずその100日が終われば灌頂があって、見事目標達成です。それが二学期に行われます。ということは修行の本番は二学期ということになります。歩歩是道場と言われて仕舞えば、修行に終わりなどないのですが、皆さんがとりあえず思い描く修行のような修行はこれです。それでは、何も知らない私のような愚者が愚直に頭から突っ込んで四度加行を無魔成満することができるかと言われると難しいと思われます。(四度加行をしたことがないので、何も言えないところもありますけど)少なくとも四度加行を終えたとしても、通常の僧侶の業務がこなせないと思われます。だからこそ、一学期がある。一学期で最低限の知識と経験を入れておいて、その上で四度加行を行えばとりあえず生き延びれるだろうという甘い考えです。甘いですが、食べれないほど甘くはありません。少し口に入れようと思えるくらいには甘いです。だから私は間違って口に運んでしまいました。甘いですね。甘いです。食べれはしますが、すぐに吐き出したくなるくらいに甘いです。我慢して飲み込めば、あとは後味を他の味で埋め尽くして仕舞えばいいのです。
ともかく、一学期は朝は5時起床の犍稚、10時消灯の犍稚で、実際に起きるのは十分前、寝るのは20分後くらいです。一応7時間の睡眠時間はあると言われています。健康的なんでしょうか。私にはわかりません。起きたら、10分で準備して朝勤行と遶道が約二時間。そのあと一時間前後の掃除。朝食を食べて、授業があれば授業準備です。昼食はとりあえず12時までに食べます。昼食後に清掃があって、清掃が終わったら午後の授業です。授業が終われば、夕方勤行と遶道です。これは日にもよりますが、二時間半程度あります。そのあとは非時食があり、自己学習があります。夜は施餓鬼をして寝ます。なるほどなるほど、こうして文章にしたらつまらんですね。本当につまらないです。実際この生活をしていてもつまらないなと感じます。娯楽もないですからね。
ともかく、一学期は朝は5時起床の犍稚、10時消灯の犍稚で、実際に起きるのは十分前、寝るのは20分後くらいです。一応7時間の睡眠時間はあると言われています。健康的なんでしょうか。私にはわかりません。起きたら、10分で準備して朝勤行と遶道が約二時間。そのあと一時間前後の掃除。朝食を食べて、授業があれば授業準備です。昼食はとりあえず12時までに食べます。昼食後に清掃があって、清掃が終わったら午後の授業です。授業が終われば、夕方勤行と遶道です。これは日にもよりますが、二時間半程度あります。そのあとは非時食があり、自己学習があります。夜は施餓鬼をして寝ます。なるほどなるほど、こうして文章にしたらつまらんですね。本当につまらないです。実際この生活をしていてもつまらないなと感じます。娯楽もないですからね。
一学期と三学期はほぼ同じ生活らしいです。二学期だけ死にかけながら頑張るらしいです。先輩は4徹かましたとか言ってました。何を自慢げに話しているのでしょうか。恥じて欲しいです。こんな不健康な文化を引き継いでいることを恥じて欲しいものです。
と言いつつも私もそれに続いているので等しく愚かであります。
ちなみに修行とは何か、という質問は実は少し答えにくいものだということも学びました。答えにくい理由としてはいくつかあって、一つは先ほど言った、「歩歩是道場」という言葉に代表される解釈の問題です。これは日常の一歩一歩から道場であり、修行であるというふうな言葉です。このような言葉がたくさんあるんです。ということは解釈のしようがたくさんありすぎて、修行と一言で形容できるものの対象が定まっていないという言語としてあるまじき状態が発生しているということになります。よって、説明が難しいと。そして他の理由としては、門外不出的な側面があるということです。正式な手順を踏んで、正式な形でのみ教わることができる修行内容がほとんどらしいのです。だから、他言無用な雰囲気があるのです。これに関しては色々理由もあるのでしょうが、師弟関係が結構大きいのでそれの影響かもしれません。正直、その辺りにはあまり興味がありません。
修行について話すことは正直これくらいですね。面白みもありません。何故って、面白くないからです。修行は面白くない方がいいでしょう。だって、面白かったら修行っぽさがないじゃないですか。
ちなみに少しだけ私の不満があります。
いく前は修行というものは自身と向かい合って、自身と仏の関係を深めていく作業だと思っていました。しかしながら、教えられることの中身は少し俗っぽいものが多かったです。あまり悪口は言いたくないので詳しくは言いませんが、とにかく俗っぽいです。仏道修行もここまで俗っぽいと、もう正直どこに行けば社会から隔離されることができるんだろうと悩んでしまいます。愚かです。私も他の人間も、全て。上に書いたような、「楽しそうだったら修行っぽさがないからあまり楽しそうに見せない方がいい」という言葉も私のものではありません。誰が言ったとかはこの際どうでもいいです。ただ、このアイデアが浮かんできているその事実だけで十分不愉快でした。
真面目すぎるのかもしれませんが、ここまできて真面目にならないほうが毒だと思います。まあ、毒を持って毒を制すこともできるかもしれませんが、最終的な解毒はどうするつもりなんでしょうね。
Pretty much that's it.
以上です。
それでは。
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