言葉とステレオタイプ
「男女差別」という言葉を聞いて何を思い浮かべるか。
次の言葉を読む前に少しだけ立ち止まって考えて欲しい。
今思いついたのはどのようなものだろうか。
男女共同参画社会基本法、公職選挙法、などであろうか。それとも男尊女卑、看護婦、「男は度胸女は愛嬌」、などだろうか。それともはたまた、女尊男卑、主夫、などであろうか。
私はラディカルなノンバイナリーなので、そもそも男女の区切りというものが問題であると考えているが、それはさておいて、皆の思いついた中で被差別者は女性だっただろうか、それとも男性だっただろうか。
メディアバイアスが大きい現代では、圧倒的に男女差別における被差別者が女性であることが多い。そのため、「男女差別がある」と聞いた時に咄嗟に被差別者を女性だと思ってはいないだろうか。セクハラが存在すると言われた時に被害者が女性であると考えてはいないだろうか。痴漢が起こったと聞いて、現場を見る前に加害者が男性であると思ってはいないか。性暴力があると聞いた時に被害者が女性であると連想していないか。
ヒューリスティックが人間には備わっている。これは経験則の一種であり、あらかじめ統計的に可能性の高い方を前提とする能力と形容することもできるだろう。だから事件として聞くことの多いパワーバランスをもとに差別のステレオタイプ、雛形を頭の中で作り上げてしまっているのではないだろうか。では、この雛形は果たして有用であろうか。
レイプの被害者であろうとするには、法改訂前には女性である必要があった。現代は、異物を挿入される必要がある。しかし、レイプはそのような形でのみ行われるのだろうか。
性別は人間が作り出したものである。そこには恣意性があり、そこにはステレオタイプがある。弱いものとして線引きされる「女性性」とたくましいものとして描き出される「男性性」が存在する。これらの社会性は男性女性を単なる生物的特徴のみならず、社会的役割まで適応させる。男性は男性であるだけで逞しいものであるために、レイプの被害者になり得ないと考えられていたのではないか。男性は男性であるだけで自身の身を自身で守れると思われていないか。男性は男性であるだけで性欲が強いと思われていないか。男性は男性であるだけで筋肉量が多いと思われていないか。男性は男性であるだけで繊細なことができないと思われていないか。男性は男性であるというだけでその個人の特徴を事前に判断されていないか。女性でも同じことである。女性は女性であるだけで美容に興味があると思われていないか。女性は女性であるだけでお淑やかであると思われていないか。女性は女性であるだけで、か弱いと思われていないか。女性は女性であるだけで、面倒見がいいと思われていないか。女性は女性であるだけで個人の趣味嗜好や特性を限定されていないか。これら男性性や女性性は社会的文脈において劇薬である。そしてややこしいのは、機能してしまうこともあるのだ。しかし、集団の特徴が個人の特徴に先んじて存在することはない。個人の特性を集団の特性で包み隠してしまうのは、個人への冒涜である。そしてその冒涜によって実際、個人の線引きが侵されてしまっている。集団の特性は個人の特性を決定づけるものではない。むしろ個人の特性が集団の特性に反映される傾向があるのみである。しかし、環境要因の特性の獲得も否定できないため、集団が個人に影響しないとは言わないが、しかしあくまで個人が先んじるものであろうと私は考える。(備考であるが、ここでは乳幼児の発達における環境要因について話しているわけではない。あくまで社会性を獲得し、アイデンティティを獲得したと推測される個人についてのみ語っていることとする。)
先ほど、「メディアバイアスが大きい現代では、圧倒的に男女差別における被差別者が女性であることが多い。」と語った。この意味を皆はどう捉えただろうか。報道される事件の傾向として女性が被害者が多いと捉えたか。女性の地位向上を願う報道が多いと捉えたか。捉え方は人それぞれである。書き手はできる限り言いたいことを鮮明に書く努力をするが、いかんせん人間の認知は頼りない。そんなことは周知の事実だが抗えない事実でもある。私が書いた文章が私の思うまま伝わる可能性の方が低いだろう。それら齟齬は「言葉に含まれる言外の意味」によって生成されることが多い。私の文章を読むときに皆は何を考えながら読むだろうか。特に何も考える必要はないのだが、もし何か考えているのであれば、一つ聞きたいことがある。その内容は私の文章の中に存在するものだろうか。皆の実体験とともに文章を読んでいないか。私の言及したもの以外を考えて読んではいないだろうか。たとえば、「男性が男性であるだけで筋肉量が多いと思われてはいないか」という文章を読む際に、「男性ホルモンの生成量からして自然なことではないのか」とか「統計的にはやはり妥当性の高い傾向として有益な情報なのではないか」とか考えはしなかっただろうか。私は「統計」という言葉は文章中に使ったが、「男性ホルモン」や「テストステロン」などという言葉は使っていない。そしてやはり「統計的にはやはり妥当性の高い傾向として『有益』な情報」とも書いていない。ここには私の書いていない情報が大量に存在する。一文を読むだけで連想される情報が大量に存在する。それは然るべきことであり、文章の読み方としてとても素敵なものである。しかし、これが齟齬である。齟齬そのものである。反論や評論、批判などはこれを行わなければ一切生まれない。なんなら、読書感想文さえ書けない。私はこの齟齬が起きることをしかたがないと思っている。誰もこの文章の読み方を非難することはないだろう。私も非難しない。むしろ推奨する。だからこそ、より深く考えを進めてみて欲しい。そして何か疑問に思ったり、反論が思いついたら、一言伝えてほしい。そうすれば齟齬は解消される可能性が高くなる。
何か言葉を聞くと、その言葉を聞いて受け手が受け取る言外の意味は、その言葉に反映され、蓄積されたステレオタイプである。男女差別と聞いて女性を被差別者としておく可能性が高いのも、公職選挙法と聞いて女性の投票権を連想するのも、メディアバイアスと聞いて偏向報道を連想するのも、個人が学習してしまったというよりも社会が積み立ててしまった意味の累積によるステレオタイプである可能性が高い。しかし個人がそう受け取って仕舞えば、それはもうその意味となってしまう。言葉はニュートラルではいられないのかもしれない。しかし私たちの考察と思慮によって少しはその色の彩度を抑えることはできるのかもしれない。
最後の文章を読んで少し前の私の記事を思い出してくれた人がいたならば、感謝申し上げる。
それでは。
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