色彩をもつということ

 少し考えたことがある。色の持つ意味とはなんだろうか。

「色に性別や感情のイメージを持たせる行為に対して良い感情を抱いたことがあまりない。と言いたいのだが、文学や芸術において、象徴的・隠喩的に色を使うことで表現することは多く、それを当たり前として、コモンセンスとして行なっている。ならば、色の持つ意味を否定し、その象徴性を削る行為は果たして意味的世界においての豊かさに繋がるのだろうか。色が何かを象徴しているということを否定してしまうことがより淡白な世界を作り出してはいないだろうか。」

 私は基本的に、利便性などの話はとりあえず棚に上げた上で、性別と色のつながりをあまりよく思っていない。ピンクシャツの話のように、誰がどの色を使っていようが、そこにアイデンティティとのつながりはないと考えたいと思っている。しかしその主張は、服は当事者の自己表現であると言う主張とぶつかる。そして私は両方とも理解できる。ではこれは色の問題なのだろうか。それともただ単にヘイトを向けるなと言うだけの話なのだろうか。

 しかし、どうだろう、黒という色は「邪悪」「悪役」という印象が大きいだろう。白という色の印象は「天使」や「清い」印象につながることが多いのではないだろうか。映像作品や絵画などによく見られるこの印象を使った表現は果たして、その色を日常的に使う人間に対して少しの不自由も与えていないのだろうか。黒色が白色に対照的に映し出され、あまり前向きではない印象を持つことに対して快く思っていない人間がいないわけではない。

 色は印象を持つ。色々な印象を持つ。しかしその印象は果たして色が持っても良いものなのだろうか。色は、より中立的な立場であるべきなのではないか。より万人に向けたものであるべきなのではないか。色そのものが個性であると、その色を他の人間が使うことでその印象を中身を見ずとも断定されてしまうのではないか。

 色が印象を持つことは、全員にとって当たり前であるように感じる。男性と女性のトイレのマークの色などさまざまな場面で議論が行われているが、しかし、色に印象があるという大前提は崩れていないように感じる。「色には印象があるが、それには害もある」と。なるほど、しかし色はそこまで大きな存在なのだろうか。

 さて、黒色は何に使われているだろうか。私が思いつくものには、礼服である。ここでの黒色は決して否定的な意味を持たない。むしろ、厳かであり、落ち着きのある色である。それでは、色にはネガティヴな意味もポジティヴな意味もあるのか。

 この議論の先には、そもそも色を観測しているのも私たちであり、その色に意味づけをしているのも私たちであるから、色の存在論と意味の存在論というよりも私たちの認識論の話であるため、色に意味があろうとなかろうと関係がない、という主張をする人間が存在するかもしれない。認識論である見方は存在する。しかしここでの問いは、意味的世界における色の持つ価値であり、少々論点がずれてしまっている。

 しかし私たちが意味づけをしている考え方は一理ある。意味的世界では意味が存在する。何かの物質に貼るラベルではなく、そのものとして存在する。私たちは文字通り、意味を汲み取っているのだ。しかし現在私たちが汲み取れる色の印象は多岐にわたり、ネガティヴであるかポジティヴであるかでさえわからない。ではこれが色の意味ではなかったならばどうだろうか。

 意味は存在する。色も存在する。では、この色の印象は、色の意味なのだろうか。否、印象である。色の印象は、何を依代に存在するのだろうか。色である。色だけであろうか。否、多くの場合私たちの存在も依代とする。意味は存在するが、印象はその反射である。ならば、色は何をもって意味を持ち、印象を持つのだろうか。


 ここで筆者はそもそも意味的世界論を完成させられていないことに気づいた。いな、そもそも完成するというよりも考え始められていなかったことに気づいた。別の記事にて解説しようとしたが如何せん筆者の頭の中でまとまっていないものを文章にまとめるのは難しい。

 意味的世界論についてはもう少し考えさせてほしい。


 ともあれ、色は印象をもつ。ではその印象はどのような在り方であるのだろうか。色は印象を持つべきなのだろうか。文学表現においては、色はあまりにも多くの意味を持つ。色は、印象を持ち、それを利用する。「真っ赤な嘘」「赤の他人」「緑子」「白々しい」「腹黒い」多くの文章表現が存在する。しかし、それらは色である必要はないが、色に意味を持たせ、その印象を利用することで、レトリックをしかける。その豊かさが、色の豊かさそのものにつながっているように感じるが、しかし、その延長線上に、色を用いた差別があるようにも思える。

 差別するのが悪いというのはごもっともな意見である。その通りである。色が持つ印象がなんであろうと、それにおける差別は色の印象とはまた別の「行為」となる。

 しかし、その潜在的な感覚を色が補っていることも実体験であろう。

 ならば、色は、淡白であるべきなのか。

 私たちの持つ色の印象はどのような扱いを受けるべきなのか。そもそも印象を抱かないべきなのか。そうすれば、文化的豊かさはその色を失ってしまうのか。

 何事も線引きであるという意見は存在する。区別と差別は別であると。なるほど、一理あるが、しかし、どこにその線を引くのであろうか。そもそも線などない場所にどんな線を引こうというのか。どこに引いてもその線は恣意的に操作されてしまう。私たちの思いのままである。これは差別ではないと私たちが決めてしまえる。それが差別であったとしても。歴史が語るのはその線引きの過ちでもあろう。ならば私たちは何をして、何をしないべきなのだ。


 今回の記事は特に答えはない。私がただ悶々と考えているのみである。

 特に面白みもなく、啓蒙的でもないものになってしまった。


 それでは。

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