藁
「藁にでも縋る気持ちがなければ宗教なんぞに手を出さないだろう。」
私は少し、考える。考えた後に、答える。
「幸せそうで何よりです。」
前回「宗教にでも縋りたい」という記事で三大宗教についてなんとなくの所感を書かせていただいた記憶があります。記録もあります。その記事の中で一点訂正したいところがあります。でもその前に少しだけ簡単にお勉強したことの中で面白いなと感じた部分を少しだけ紹介します。
仏教はとてつもなく変化の激しい宗教であるということがわかりました。インドで発生した初期仏教と日本仏教では、ユダヤ教とイスラム教くらいの違いがあるように思えます。そこまでは大きくないか。否、過言とも言い切れない。
そもそも仏教は無神教として誕生しました。当時の主流の宗教であったバラモン教に対するアンチテーゼのような形で発生したようです。基本的には神や仏と言った話ではなく、この世の真理を探求し、その探究に対する自身の精進について語るものであったそうです。その無神教が有神教へと変貌したのは、永い時間をかけて他宗教を吸収し、融合したからだとされています。面白いですよね、絶対的存在を否定した思想が、信者の手によって絶対的存在を肯定する思想に変貌しているのですから。「何もない」は人間にとって不安でしかなかったのかもしれません。みんな、何かが有って欲しいのかもしれません。欲張りですね。絶対的であることは、なんとも虚しいことであるにもかかわらず、それに安心を覚えるのです。宗教は心の支えになることが多いです。現代だと特に、個々人の安心感を得るために科学と折り合いをつけながら解釈と理解を繰り返して信じている人が多いと思います。昔はその思想そのものが事実であり、真実でありましたから、疑うとかそういう話ではなく、今の私たちにとっての科学のようなものだったと思いますが、現代はそうもいきません。私個人としては科学も宗教のようなものだって昔からずっと主張はしていますが。
さてさて、前回の記事で私が訂正したい点として、宗教と政治権力の関わりかたの部分です。
キリスト教は政治的側面がとても強いという記述を残した記憶があります。イスラム教もイスラム教国家があるからこそここまで存在感を示していると書いた気もします。それぞれ事実であり、まだ私はその記述をひっくり返そうとは思いません。私がひっくり返したいのは、仏教についてです。私は仏教が生き残った理由は、その思想の寛容さにあると書いた記憶があります。それ自体は歴史分析的にもおかしくはなく、妥当性のある記述であると思います。が、仏教歴史の中で最も力になったのは、キリスト教やイスラム教と同じく政治権力であったという主張に出会い、それにも頷いた次第でございます。思想だけでは生き残れない。時の権力が味方をしてくれたからこそ生き残ったと理解しました。
その権力はアショーカ王や唐代の王朝など、歴史の中で仏教の伝播にともなって広がっていきます。アショーカ王は虐殺の反省として、唐王朝では統治と哲学のため。それぞれその時の都合の良い理由に基づいて信心を深めています。庇護がなければ伝播もなく、発展もなかったと。
宗教はその思想だけではなかなか広がりづらいのかもしれません。世界宗教になるためにはやはりそれなりの権力と抱き合わせなければ難しいのかもしれません。俗ですね。私は俗っぽいと思います。面白くないと思います。申し訳ないですが、幻滅一歩手前です。しかし、その思想に出会えたのは、権力のおかげなのだからそれはそれで、皮肉なものです。
宗教は藁かもしれませんが、縋る瀬も糸もなければそのまま溺れてしまうのだから、それでもいいと思います。縋らなくても生きていける幸せ者は、縋らなくても良いのです。その思想に魅力を感じないのであれば、感じる必要はないのです。ただ、ただひたすらに、個人の自由なはずですから。
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