宗教にでも縋りたい

 独り言です。


 皆さん、新興宗教についてどう思いますか。私は、哀れであると思います。それでは、伝統宗教についてはどう思いますか。私は、これもまた、哀れであると思います。

 一度聞いたことがあります。メディアバイアスも入っているとは思いますし、私の実体験ではないのですが、新興宗教に入信した方の話です。宗教の幹部の方々は、その宗教で本当にこの社会が向上し、信仰者が幸せになると考えて、そう信じ、行動しているとのことでした。あの人たち自身はいい人たちだったと、そう語る人間を見たことがあります。その人たちは、「いい人」なのでしょうか。

 私は宗教に興味を持つのはよっぽどの理由がなければ、そう機会がないものだと思います。特に現代日本では、触れずに生きていくことが容易であると。そんな中、宗教に救いを求める人間は、その前に所属していた社会に幻滅したか、社会に幻滅された人間であることが多いような気がしています。私は、そのうちの一人のようなものですが、少々事情がことなります。社会に幻滅し幻滅されましたが、そもそもの生まれが生まれなので、むしろその社会に人柱として利用されているだけです。なので宗教も一つの社会としてある以上、私は、それに幻滅します。

 そんな私は置いておいて、それでは特定の社会に幻滅し、幻滅された人々が縋る宗教は、一体どのようなものでしょうか。新興宗教とカルト宗教も分けて考えてみます。そもそも宗教は現状に違和感があり、不満があり、それを解消するための手段としての宗教であることが多いです。そのため、新興宗教だけでなく、宗教は、社会改革を掲げることができる理由の一つになりがちです。その中でも現状新興宗教に多いのは、「現状見限られた社会を浄化し、是正し、幸せに人々が暮らせるものへと変えること」を目的にするものです。現状が恨めしいのでしょう。分かります。私も社会は嫌いなので、その気持ちはわかります。それでは、カルトはというと「現状見限られた社会からおさらばする、もしくはその社会をオサラバする。」といった行動をとることが多いでしょう。なるほど、こちらも社会が憎たらしくて仕方ないのでしょうね。私も憎いです。

 では伝統宗教はどうでしょうか。何か違うのでしょうか。彼らは、独自の社会形成に成功したものらだと言えるでしょうか。仏教は私が慣れ親しんでいるため、正直私が語るとバイアスが入るかもしれませんが、そもそも私が何かを語る時点で、私のバイアスからは逃れられないので、そのまま話します。

 仏教はその文脈で言うと、社会形成というよりもむしろ、個人の世界観から変えていこうというものです。そして私はそれに賛成をしている立場です。正確にいうと、先ほど言った「個人の世界観から変えていこう」というのは正解か怪しい部分ですが、仏教はこの世の在り方について、社会という次元のみでなく、存在論的な部分から全てを一つにする思想です。全体主義とも違う。全体主義は個人が存在するからこその全体主義であれるように感じますが、こちらは、区分のない何かの存在を認めるのみである、という形です。さて、仏教が成功した理由はどこでしょう。私が思うにむやみやたらに敵意をばら撒かない部分であると思います。近代、とは言ってもそこまで最近ではないでしょうが、細かい宗派が出来上がった頃にはもうその敵意のなさが失われてしまっている部分もありますが、元来、全ては個人の話に帰着します。そこが新興宗教にはみられない特異な点でしょうか。

 キリスト教はどうでしょうか。人類皆平等が根本であるこの宗教は、正直あまりにも権力になり過ぎてしまっています。だからこそ、純粋な宗教としての側面よりもむしろ政治的側面の方がこの宗教が生き残った理由が大きいように感じます。無論、仏教やイスラムも政治的要因は大きいですが、なんてったって、天下のヨーロッパ様の宗教ですからね。そりゃあ源泉のユダヤ教なんぞ目もくれずにこれだけ成長できることにも納得してしまいます。

 さて、ここまで来て、宗教に入信しようと思いますか。というか、何よりも、何が宗教なんでしょうか。

 新興宗教、カルト宗教、伝統宗教、民族宗教、全て宗教と名がつきます。それでは、ただの思想と何が異なるのでしょうか。皆さんは何か「信じていること」はありますか。私はこの世が存在しているという信念を持っています。程度はまばらながらも、大半の人間はこの世が存在していることを深くは疑っていないのではないでしょうか。それは彼らがそれを「信じているから」です。この世が存在していないというのは、なるほど、信じ難い言説ですが、信じることはできます。信じ難いだけです。それ以外にも、この世には性別が2種類しかないと信じている人間もいます。この世には、分子や原子が基本単位で物理的にこの世界が構築されていると信じている人間もいます。この世には地球が丸いと信じている人間もいます。この世には地球が平面であると信じている人間もいます。この世はたくさんの「信念」で溢れています。では、それら信念は宗教とは何が違うのでしょうか。寿命も、健康も、思想も、全ての概念は初めは信じることから始まります。疑うことから始まるとされる科学でさえも、何かを土台にしなければここまでの進歩を見せることはなかったでしょう。人間は信じるものです。宗教はその人間の信じる心を整えるものです。指針を見せるものです。正直私は、宗教と思想の区別がつきません。私には人間が何かを信じていることは理解できますが、真実であると形容できません。

 宗教も思想も、存在も、信じることでしかないのであれば、それらを信じている人間は哀れなのでしょうか。私は私を含め、哀れであると思います。人間ですから、信じることで救われしまうのです。何かを信じることで拠り所を得てしまうのです。宙に浮くことで、苦しんでしまうのです。「信じるものは救われる」という言説は結構信用できるのかもしれませんね。何を信じるかはさておき。



 何度も言いますが、私は愚かなので、暴論を振りかざすことしかしていません。この文章に書かれていることが真実ではありません。私が信じることができるかもしれない言説を書き上げているだけです。皆さんが信じないのであればそれでよく、私が今ここに書いていることを信じていなくても正直何の問題もありません。ここにはただ言説があるのみです。

 ですが、私は苦しんで生きていきたくはありません。

 皆さんも、苦しみたくはないと思います。

 自分自身の存在くらいはとりあえず信じてみてはいかがでしょうか。そして今抱えている痛みや苦しみそのものの存在くらいは信じてみてもいいと思います。

それでは。

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