毒
ふと自分の言動を振り返った時に、昔自分が嫌な思いをした他人の言動を繰り返してしまっている時はありませんか。私は最近少し自分が昔嫌だと思っていた発言をしそうになることが多く、不快な気持ちになることが多いです。私は昔、あまり、職業のことについて話をされること、特に私の将来の職業について言及されることをあまり好ましく思っていませんでした。今も正直そこまで得意な話ではありません。ですが避けては通れないような話題になりつつあるので、仕方ないなと思いながら話すことは多いです。またそれに通じて私の将来や夢、能力、可能性、結婚、性別、人生設計などの話題が苦手になるという嫌悪感の汎化が生じていました。だから私は何も言わずに微笑み返し、何も話さなければそれ以上何か嫌な話題を続けられることもない、という学習をし、その逃避方法を選択し続けました。しかし、それでも嫌な気分にはなる。だから、文章を書いて昇華したり、同じトピックについて考え続けて、周りの声を遮断したりしていました。嫌だったのです。私について、私のことについて何か常識を盾に言葉を放ってくる人らがとても気に食わなかったのです。
ですが最近、齢二三になり、なんとも言いづらいのですが、こう、将来について私自身が私自身に質問をしなければならなくなったのです。昔から自身に対して質問はしていましたし、私は職が幼い頃から社会文脈的に決まっているので、だからこそむしろそれについて語られるのが嫌だったのですが、節目節目において不可避の話題である将来設計が今佳境に入っている感覚があります。小学校卒業、中学校卒業、高校卒業、大学卒業、それぞれの節目やその間の進路相談などで永遠に質問される、将来設計。私に何かできることがあるのであればさせてくれと思ってしまうほどに私の社会文脈の強力さを無視した人の気持ちを考えない質問を浴びせてくれる人ら。なんとも耐え難かったのですが、今それを私が私自身にしています。自傷行為です。ですが、この自傷行為は自分の意思ではやめることのできないものです。社会に形成された痛覚を社会に形成された刃物で社会の指示に従って自分の手を使って刺している。私がしているのは愚かにもその社会に従うしかない無力さに失望しながらも、反逆する勇気も気力も持ち合わせずにただ自身の社会的痛覚が社会的刃物に刺されているのをよしとしてしまっていることであります。
そして愚かにも、同じような質問を友人にも投げかけてしまうのです。私が苦しんでいることを他人に強制させてしまっている。私が嫌なことを相手にしてしまっている。消極的自由の侵害です。ですが私はこれを特に強い罪の意識なしで行ってしまつている。なぜ可能か。それは昔、私に質問を投げかけていた人間らがしていたように常識を盾にしているからであると考察できます。「当たり前」は、あまりにも鈍く、あまりにも酷い鈍器です。常識は社会が形成した毒です。私は今、昔あれだけ嫌い、憎み、羨み、苦しめられてきた「常識」と「当たり前」という社会的毒に蝕まれています。私はあいつが憎いのに。それに蝕まれていたことを自覚もできずに今までのうのうと生きてきた。常識を獲得し、それを振り回してしまっている。当たり前で他の人間を殴ってしまっている。あれだけ憎かった社会に順化してしまっている。
昔は、常識に毒され、社会に順化し、当たり前に生きることを苦痛そのものだと考えていました。それは悪だと。文化的人柱は私は嫌いです。私がそうであるように、文化的人柱は人間として育てられないので。他人から生まれた目的を付された子どもの苦しみは、深いです。その傷は、一生癒えないどころか、日を経るたびに深くなります。だのに私はその常識に毒されてしまっている。社会に順化し、支援してしまっている。当たり前に生きようとしてしまっている。私は、昔の自分にずっと笑われている気がしている。どうせお前もあいつらの仲間だったんだな、と。
私は、そんな自分を恥じながらも、少し安堵してしまっている。常識に乗っかってしまうのはこんなにも楽なのかと。こんなにも愚かでこんなにも温くて、こんなにもしょうもないのかと。私が感じてきた苦しみはむしろ社会常識に従わなかったからこその痛みだったのではないかと。だが、しかし、今もまだ、日に日に文化的人柱としての傷は深くなっている。何を考えるにしてもその傷は鋭く痛い。耐えられるが、耐えることで必死になって他のことが考えられなくなるほどには痛い。今まだ私は苦しんでいる。常識の毒を飲んでもまだ、感覚がある。
さて、昔嫌いだった人間になってしまうことは自身にとっても耐えられないことであるとは思う。私も容易く耐えられるものではないと考えている。しかし、こうも考える。人間はこうも不安定で、変わらないことはないのだと。だから、昔自身が憎んでいた人間になることも、昔自身が疎んでいた存在になることも、昔自身が逃げていた場所に落ち着くことも、昔自身が想像だにしていなかったものになることもある。私たちができる精一杯のことはせいぜい存在することくらいであろう。否、私にしてみればそれさえも怪しい。存在することができればかなり良い方だろう。私は少なくとも、私として存在できていない。そう自覚している。私はまだ、何か不確定な事象であるのみにとどまっている。だからこそ、私が社会常識を受け入れてしまい、この痛みをよしとしてしまっているのだろう。私は社会に形成される枠組みを依代に存在しているのみであり、私は今、ここにいることができているのか私にも分からない。
私がここで、社会的文脈そのものになることで、社会的・文化的人柱になることで他の人間もまたその各自の枠組みを持つことができるのかもしれない。私は、私が存在しないことで、他人を存在させることができ、それによってのみ存在できるのかもしれない。
こんなことを言っていると、昔の自分は社会に頼りすぎだと非難してくるだろう。人間の実存を蔑ろにしていると追求してくるだろう。世界のあり方とその観測の多様性を無視していると批判してくるだろう。確かにそうだ。しかし、私は今常識に毒されている。殺されかかっている。私は解毒剤の在処を知らない。私は、仕様がないのだ。
以上、私の最近の悩みでした。
皆さんは他の人を当たり前だからと言って説明もなしに何かを理解するよう強要することのないようお気をつけください。された方は結構苦しいですから。何が常識であるか、再考した方がいいかもしれませんね。
消極的自由や文化的人柱、デザイナーベイビーについても一考してみてください。
それでは。
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