感情と倫理

 九月に入り、最初に投稿する記事が重くて申し訳ない。最近は、嫌な情報が頭の中を占領してくるので、無心で小説を書きながら現実逃避をしている。また小説も気が向いたら投稿するとする。

  最近ネットサーフィン(ツイッターを見てただけ)をしていた時にふと気になる文章を見つけた。正確には覚えていないが、それは「これは正しくない怒りであり、それがわかっているので何かを正したいとかは思っていないけれど、ただ間違っていても腹立たしかった」という文章であった。なるほど、本人の持つ考え方は世間一般で語られている倫理にはそぐわない考え方かもしれず、本人はそれを理解した上で世間一般に通用している倫理を大事にするが、しかしそれでも腹立たしいものは腹立たしいのだと。言いたいことはとてもわかる気がする。

 似たような状況をまた別のトピックで感じたこともある。

 精神障碍者の行なった犯罪に対する判決については多くの議論がある。しかし、法哲学・倫理学・責任論・福祉論等の下で現在下されている判決は妥当性の高いものであると私は考える。その精神障碍は本人の責任ではない。社会が負うべき責任であると理解できるし、妥当性が高く、私は一旦、現状それで良いと感じてはいる。刑務所という場所が、更生施設である限りはその方向性が妥当である。

 そもそも刑務所という場所についてどう捉えるべきだろうか。福祉上、刑務所は更生施設である。社会に参加させないようにする監禁場所では無い。むしろ出所後、社会に参加できるように社会を学ぶ場所である。刑罰というのはその罪に対して課されるものであり、その人自身はその罪を犯してしまった責任を負う。言葉の綾のような部分があるが、この言い方をするとき、刑罰は罪人には課されない。その罪人の罪に課される。だからこそ、刑務所で罪人はその罪の責任を果たし、その罪を理解し、なぜそれが罪なのかを理解するべきである。刑務所は隔離施設では無いのだ。もう一度言う。刑務所は隔離施設では無いのだ。刑務所が隔離施設なのであれば、刑務所での受刑者の仕事は意味がないものになってしまう。隔離するのであれば、市街地に施設を作る必要もない。

 また、精神障碍については、また責任追及の話になるが、その精神障碍を自分の意思で獲得したわけではない以上、その障碍を本人の責任として追求することは難しい。精神障碍は本人の責任ではない。それは、精神疾患においても似たようなことが言える。たとえば症例として、脳腫瘍ができたせいで人格の変化が起きてしまったものがある。その人格の変化はその腫瘍のせいであり、その本人が変えたいと望んで変わったわけではない。しかしこの場合、本人に判断を下す能力があるので、責任はその腫瘍にも本人にも追及されるべきだと考えるのが法廷では妥当であるとされるだろう。これを見てなんとなくわかる通り、責任はその本人の意志・意思に追及される。本人がただ唯一の行為のみを選択肢として持っていた場合、その責任を追及されるのは、その行為しか持たさなかったその環境にあると考えられる。少なくとも実践的に法廷で下される判決はその責任論で通っている。

 責任の見出し方には様々な説があり、「責任はその行為を行った時点でそれに関係する全ての要素に含まれ、それを見出す工程を責任追及であるとかんがえる」考え方や、「責任は私たちがどうその行為を解釈し、どうその責任を各々の要素に分配するかを考える工程を責任追及であると考える」考え方などがある。どちらにせよ、最終的には私たちは見えるものしか見えないし、感じることができるものしか感じることができない。そのため、私たちの世界観は恣意的であるしかない。真理が如何であれ、私たちは実践場面では決断を下さねばならず、その決断は恣意的であるしかない。その上で現在採用されているのが、現状であるというわけである。

 そして精神疾患や精神障碍において、その責任をどこに追求するかというと、それを支えることができなかった社会である。個人ではなく社会に責任を追求する。罪に対して刑は下されるが、その罪に対しての責任がその個人に部分的にしかないのであれば、その個人はその刑を部分的にのみ受けることになるというのは妥当である。

 少し話題が逸れるが、こういう話をすると、下手な優生思想論者は「生物は昔は競争を元に生きてきて、それができないやつは淘汰されてきた。だから、その単独で生き残る能力のない個体は価値がない。社会福祉がなければ生きていけないような障碍者等の人間は生きる能力がないいのだから淘汰されても仕方がないのだ。」と語る。さて、まず、一個体のみで生きていける生物がどれほど言うのかという話であろう。少なくと人間は集団を形成することで生き抜いてきた。も優生思想者と同じようなベースの話、適応主義的な軸で話を進めても、そもそも人間が生き延びてきたのは集団のおかげであり、個体の強さではない。そして、そもそも適応主義は進化論の解釈としてあまりにも違和感があるものである。徹底してアトランダムである自然淘汰のメカニズムが恣意性を持てるはずがないのである。適応などという主格を持てない。そして、昔は障碍者は生き残る可能性が低かったと言う話であるが、それは歴史的に事実ではあろう。「昔は」難しかったのだ。しかし今は昔ではない。今は今である。現代において、昔生き残れなかった個体が生き残る能力を科学や技術進歩、福祉制度で獲得したのだ。なぜ他個体を見殺しにしなければならないのだ。生き延びる能力を得た個体が生き延びるのは、優生学者の論理そのものではないか。自分のことを「偉い」と思い込みたいだけのトンデモ解釈を広げる優生学や選民思想を振りかざす阿呆は少なくとも私のブログには要らない。頭が足りていないのだ。私にそう言われると言うのは結構やばいぞと理解してくれ。無理かもしれないが。

 ともかく、私は今まで書いた通りに現代社会の制度を理解し、妥当性に対しても頷く。

 しかし、私は、これでいて、ここまで理解していると豪語した上で、やはりこれを「正しい」と形容できずにいる。そう言い切る自信がないのだ。もし障害者の責任が社会に少しでも属してると言うのであれば、その社会を構成する被害者やその親戚・遺族さえもその責任を負うのだろうか。それは「自業自得」なのか。もしもそうなってしまった場合、それでもこの理論を持って危害を加えた・殺したとされる相手を許し、怒りを沈めることは可能だろうか。その怒りがいくら倫理的に「間違い」であろうとも、そこに怒りがあることは無視できないだろう。倫理は感情的であってはならないのだろうか。しかし、間違っていると言う感覚は、なんとも難しい感覚で、感情であると言われるとそうであるかのように解釈でき、しかし論理を元にその論理の破綻に違和感を覚えている感覚であると言われると確かにそうであるようにも思える。では、倫理には、感情がつきものなのだろうか。もし人と人がであるときこそが倫理の時なのであれば、より人間的な学問であるべきなのではないか。許し難いが、許さなければならないことを理解している。度し難いが、飲み込むしかない。これは正直、私の耳には理不尽なようにも聞こえてくるのだ。

 なぜ、「正しい」ことが素直に喜べないのだろうか。だから私は努めて「妥当性」と言う言葉を使う。なぜなら、正しいことが腹立たしいということがとても、倫理学的直感に反しているからである。学問は論理的であるべきなのかもしれない。しかし、その直感も大切にするべきだろうと考えている。どこで何をすればこの直感にそう結果になったのだろうか。それともそもそも避けようがない違和感なのだろうか。理解と感情が一致しないというのはよくおきることではある。頭では分かっていても…という文句は幾度となく聞いてきた。しかし、学問でも通用するのだろうか。頭では分かっていてもそれが正しいとしてもそれに度し難い感覚が残っていることが私の倫理のあり方に対する解釈と反している。そういって反論することは許されるのだろうか。

 「正しい」とか「間違っている」とか、そういったものはもう考えないほうがいいのか。妥当であるといっても、それが理不尽であることもあるだろう。何か見落としている気がするのだ。何か。倫理学や哲学は、心理学と、お互いにお互いを欠いている気がするのだ。見落としている。私たちが人間であるということを見落としている。研究は好きだ。そして私はその研究が好きで、支援している。しかし、私たちは私たちを甘く見ている気がする。もっと複雑でもいいのではないか。私は、人間が何かなどを語り尽くすことは不可能であると考えるが、しかし、私たちが人間であることを念頭に置き続けないといけないとも考えている。より多くの見落としは存在しているだろうし、私たちはきっとそれが何かに気付けない。でも感じるのだ。何かが欠けている。でなければ、こんな倫理と感情の不協和なんて起きるはずがない、と思ってしまう。


 ちなみに、今回は注目しなかったが、この腹立ちには「被害者意識」という問題もあると考えられる。というか、そもそも、この倫理と感情の不協和には語り尽くせないほど多くの要因が考えられる。今回はその学問のあり方にフォーカスしたが、そこを疑わずともより問題に近い要因で考えることもできよう。どちらかというと、本当はそちらを先にしなければならないのかもしれない。

 被害者意識についての論文はあまり見たことがなく、唯一、ニーチェの「超人思想」がそれを少し語りかけているのではないか、と感じたことがある程度である。自分が可哀想な存在である、という前提はその人本人を追い詰めることもあれば、周りを追い詰めることもある。心理学では苦痛は苦痛であり、その事実を否定しない。それは大切であるが、自分が被害者であるという自覚が過度に強くある場合の臨床場面もしっかりと観察して研究していくべきなのではないかなと感じている。もしかしたらもうすでにしているのかもしれないが。


以上

それでは。

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