人の言葉は思いの外刺さる
人間は悪意を持って人間と接する事ができる。しかし、人間は思いの外脆い生き物でもある。否、思いの外であるのは私たちがそう思い込んでいるだけであるが、しかし、私たちが思い込んでいるほど人間は頑丈ではない。
少しの言葉で傷つき、そのままその傷が癒えても跡が残る。時間の可逆性についての議論はさておき、主観的過去の事実は変えられない。その意味づけが変わったとしても、傷がついたということは否定できない。むしろ、その痛みを否定する方が不健康であるとも言える。
鬱患者のケースや慢性的な抑うつ気分に悩まされている人のケースの中には、現在精神が十分に健康な人間が見れば何もそんなことで落ち込む必要はないのにと言ってしまいそうな事象がきっかけで抑うつ気分が現れた人もいる。その人は他の人に比べて「心が弱い」のだろうか。人によりその感受性の敏感さには個人差があるが、私は個人的にその敏感さには環境要因が大きく関わっていると考える。生まれ持った特性などが全くないと否定するわけではない。しかし、その人間がどう育つかの発芽点でどのような言葉を浴びせられたか、と言う要因はその人間の価値観を大きく決定づける要因である事が多いだろう。そして、人間は価値観に沿って自身の形成をしていく。
私は個人的な経験の中に、一度ペンを床に誤って落としてしまって、そのペンを拾う際にそこから開きながら数時間動けなかった事がある。鬱ではない。しかしその時の自身が健康であったかと言われれば、不健康であったと言える。ペンを床に落とすことなんて誰にでもある。そして現在の自分が今ペンを床に落としても数時間泣き続けることはないだろう。しかし、その時の自分は今の自分ではない。ではなぜそのペンを落とした事が抑うつにつながったのか。私はその頃ずっと苦しい思いをしていた。将来の進路、自身の自由、自身の能力の限界、社会責任や文化に対する憤り、など。全てひっくるめて頭の中にずっと溜め続けていた。その時私は何かをするわけでもなく自身がしないといけないことをし続けて気を紛らわしていた。さて、そんな私が貯めた毒は私を着実に蝕み、私の中を苦しみで埋め尽くしていた。そしてその日、ペンを落とした。落ちていったペンは私の中ではもう拾えないように感じてしまっていた。その事象が私の中でのトリガーとなったのだ。コツコツと積み立ててきた抑うつ気分が私の中で封を切って溢れたのだ。何もペンが落ちたことだけに涙したのではない。私のこれまでの人生を含めて全てに絶望したのだ。衝動的な感傷的なその時間は私にとって永遠に感じれた、そしてそのまま消えればいいとすら思った。苦しみたくない。なるほど、希死念慮はこれを餌に育つのか。これで皆のことを理解したのではない。私が何を抱えたら死に至るかを確認した気になった。
さて目の前の人間がそのような毒に蝕まれていた人間であればどうであろうか。あなたはその人間のトリガーを引きたいか。何もその言葉が確実にその人間を死に至らしめると言っているのではない。その言葉が人間に死を考えさせるだけである。好きに暴言を吐いたらいい。法律上、名誉毀損であり、(精神的な)暴行罪にはなり得るが、殺人ではないし、自殺幇助でもない。人間はそんなことでは死なないと思われている。これほど最も簡単に死んでしまう儚い命であるのに、これが頑丈であると盲信している。
私は専門家ではない。カウセリングの資格は持っていない。だから人間の心なんてそこまで深く理解をしてないし、たかが心理学の学士学位を持っているだけである。普通の人間でさえここまで考えられるのに、さて人が目の前にいてもそんなことを考えられないのだろうか。否、人が目の前にいるからこそ考えられないのだろうか。
自身の意思で命を断つことはとてつもなく難しいことであるはずだ。自己防衛に反するし、死こそが苦しみそのものであるはずなのに。でもそれでも死を選ぶと言うのは、この世がそれほど生きづらいということ。
人は脆い。
私も脆い。
でもその脆さは罪ではない。
幸い人間は傷ついてもある程度ならば回復する事ができる。苦しいと思えば回復に徹することも重要であると私は考える。そして、目の前の人間も生きているのだと認めるべきだろう。実世界は現象学の思考実験場ではない。どちらかというと倫理の実践場である。人間が目の前に存在する限り、その倫理を実践するべきだろう。
以上、誹謗中傷は良くないよというお話でした。
それでは。
Comments
Post a Comment