進路相談です

 私の興味範囲とお勉強について

こんにちは。今回はみなさんに私の興味範囲と今後のお勉強の方向性についてお話しして、一方的に話し続けることでこちらの脳を整理し、進路相談に無理やり付き合わそうと思います。

現在私は大学を卒業して、仏教僧になるための修行を来年に控えている状態です。今年、大学院に行く予定が頓挫してしまったので、とりあえずは実家の手伝いでもして、来る留学のその日のために準備をしようという段階です。そのためにドイツ語検定を受けたり、英語の証明をとったり、なんならイタリア語の検定も受けようとしています。少しでも大学院に有利なのであれば少しでもできることはしていこうという所存です。そしてそして、来年仏教僧になるための修行が一年間待っています。楽しみかと言われると全く楽しみではありません。修行ですからね。苦行が苦しくなければこの世の中の何が苦しいのだと言う話になります。私は苦しみは得意ではないので、とても嬉しくないです。しかしやらないといけないことはやらないといけません。問題はその後です。華々しく修行を完了した暁には私は大学院に入学するための書類審査などを行わなければなりません。そこでいくつか選択肢が出てきます。

私は学士学位は心理学で取りました。であるため、順当にいけば修士は心理学を、となりますが、今私はとても悩んでいます。そもそもなぜ心理学を選んだのか。私は大学に入る前、人間が苦手でした。今も得意かと言われると疑問符が浮かびますが、ともかく、大学入学以前は苦手だと断言できました。なぜか。分からなかったからです。そこで私は倫理・哲学に出会いました。そこでは色々な人間が色々な意見を出し合い、真剣にこの世の実存について語り合い、この世の現象について語り合い、人間について語り合っていました。その素晴らしいアイデアに感化されてしまった思春期の私は、哲学の道を志しました。いやいや心理学に行っているじゃないかと、そうなんですが、少々お待ちを。その幼い私は哲学を志し、文献を読み漁っていましたが、私は頭が悪く、記憶力も悪く、回転も遅いため、さて、その理解には困難を極めました。言いたいことはわかる気がするが、いざその議論を広げるとなると何を語れば良いのかさっぱりだったのです。そのとき、(ここからですよ)私はそんな自分の頭に興味が湧きました。もう少し広く言えば、このような議論を行う事ができる人間の頭に少し興味が湧いたのです。なぜそんなことが考えられるのか、なぜ私にはそのアイデアが生まれないのか、そしてなぜそのアイデアを私たちは発想もできないのに理解できるのか。人間の個人差に興味が湧き、そして人間の共通のその頭に興味が湧きました。そして、それを学問の対象とするのが脳科学、ないし心理学だったのです。近年心理学は人間学と総称される学部に統合されがちです。人間を知りたい人間が多い。私もその自分が何かがわかっていない迷子の一人だったので、その心理学を勉強すべく大学へ入学しました。ここまでは私は純粋に真っ当な道を進みました。そして大学でも倫理学や哲学をゼミに入って勉強しながら心理学の教養を貯めてきました。さて、その大学で私が成し遂げたことはなんだったか。特に何もありません。一度グループ研究で学会で発表した論文がこの世に浮かんでいるだけで、それ以外は一年の留学を楽しんだだけです。ですが、心理学を学ぶにつれて、そもそもこの世の妥当性が薄いことに疑問を持ちました。ここで哲学に立ち帰ります。私は哲学が学問の親だと信じて疑わない偏見の塊なので、科学唯一至高主義とは馬が合いません。そして、心理学はその本質を哲学に依っているにもかかわらず、その学問自身は科学になりたくて仕方がないという少し歪な学問です。これは心理学域の教授の多くが言っていましたし私個人の所感でもそう感じています。私個人としては、「考察」が物足りないのです。科学であるが故に「考察」を書く際にそれほど自分の意見が言えず、そもそもその論文の主役は考察ではなくその実験そのものであるという意見が多いです。主役は「結果」の部分であって「考察」ではない、と。しかしながら、人間とは意味的存在でもあります。(意味的存在と言うのは私個人の世界観の上で成り立つ相対的な存在であり、簡単に言えば意味的世界に存在する「意味をその構成要素として持つ実存」です。意味的世界論では現在主流である科学的世界論が分子をその構成要素の最小単位として持ち合わせているように、意味をその構成単位として持つ世界です。世界の見え方がいくらっても構わないじゃないですか。これについては私の妄想なので、また別の記事にまとめなおします。)考察をすることでしか見えてこない人間の在り方、実存が存在すると考える事ができます。人間はより、複雑で相対的な存在であってもおかしくないはず、それがおかしければ考察でおかしい事がわかるはず、と。だから、その考察部分のみを堪能できる科学哲学という分野に最近は憧れを持っています。

私の研究分野は「行為主体性・自我とその自由」です。自由意志というとカントが浮かんできたり、ヒューズが浮かんできたり、リベットが浮かんできたりと忙しいので、私は自我とその自由を専門にする、と個人的に呼称しています。ここに辿り着いた経緯としては、人間の記憶に初めは興味がありました。人の考えの糧となる記憶は私にとってとても興味深かったのです。大学にはたくさんの教授がいて、たくさんの専門分野を垣間見ることができます。学部生のいいところはその無知を言い訳に何でもかんでもたくさんとりあえず体当たりができる部分にあると思います。そしてその記憶に対する興味はやがて「人間の持つ道徳観とその形成」にシフトしていきます。道徳観は倫理としてその「在り方」がありますが、人間の持つ道徳観はそもそも人間が感じている道徳という感覚とはまた異なることも多く、その感覚形成に記憶が一役勝っているのではないか、という推測です。面白いと思いませんか。何が善いとみなされるのか、という疑問であり、何が善いとみなされるよう人間は経験しているのか、人間のどのような経験が何が善いとみなすために有益であると判断されているのか、という問いでもあります。そして西田幾多郎にハマりました。面白いです。仏教哲学や日本哲学はとてもそもそもこの世界を主観的なものであると解釈している部分がとても素敵であると感じました。所詮人間は自分が観測できるものしか観測できないので、それを糧に個人の世界観を形成するしかないのです、と。おもしろですよね。そして実験心理や神経整理心理学に傾倒しつつあった私は、Neuroethics 神経倫理学に強く惹かれました。とても面白いのです。これはこれでとてつもなく面白いのです。神経倫理学はそもそも神経学の倫理もしくは倫理の神経学の二つの解釈ができますが、私が強く惹かれるのは後者です。倫理観は神経学的にどう形成されているのか、という主題です。私はこれに関しては本を読んだのですが、いまいち私の推せる文章に出会わずに時が経ちました。そして、その神経学を勉強していると一つの大きな文献にぶち当たります。リベットです。彼が行った実験の一つの解釈には、人間の自由は行動に対する後付けの解釈に過ぎない、というものがあり、これは実はとてもメジャーな解釈となりました。現在は多くの批判点や実験妥当性の疑問などが存在しますが、この論文が提示した実験結果は大きな影響を私に及ぼしました。「そもそも人間が自由を持たないのであれば、道徳なんぞ必要がないではないか。」私は急いで自由について調べました。そこで知ったのはそもそも人間の自由が議論の大きな的であること、自由意志についての研究者が日本にはそこまで多くないこと、そして、人間の自由には常に疑問符が付きまとうこと、などです。なるほど私はここをすっぽかしていたのか、と改めました。神経学領域での自由と哲学領域での自由は異なる概念であることもあり得ますし、さてどちらの進路を選ぶべきでしょうか。私は今ここで迷っています。私は心理学が好きなので、自我についての研究などがとても面白く感じますし、人間が自我を持つということ自体が面白く感じます。そしてその自由ともなると、よだれものです。それを心理学域で研究するか哲学域で勉強するか……

私は今年大学院に行く予定でした。それは科学哲学の院でした。しかし、うまくいかなかったですし、問題は考える時間ができてしまったことです。どちらに行っても楽しめる自信がある2択です。さーてどちらにしてしまおうか。

というのが私の進路相談です。長いですねえ。私の興味を辿ると、人間は昨日と今日と明日ではやはり同じ存在ではあり得ないのかと感じてしまうくらいには目移りが激しいです。私は愚かなので、自身の能力値の限界を考えずに生きています。天才ではないとわかっていながらも楽しいのでやめたくないという気持ちで歩み続けています。自分でも悪いことではないとわかっていながらも愚かであると感じています。他人がそうしていても愚かであると感じないのに、自分がそうすると愚かだと感じるのはなぜでしょうね。この世は不思議でいっぱいです。

頭が良くなくてもできる場所でしたいことはしたらいい。そう妄信して行動を続けているので、このブログも過激思想が止むことは今後すぐにはありません。もし、反論ないし論理の飛躍を感じたら教えてくださいね。

さーて、人間とは難しいもので、何も人間がいつも合理的であるとは限らず、むしろそうでないからこそ人間であるとも言えるという意見もあり、難儀なものです。人間が存在する、そのこと自体もまずは疑いにかけなければならないのですが、私はCogito ergo sumが根本にあり、その考える自我の存在とその自由が命題であるため、そこから私の世界観はスタートします。そこから発展する意味的世界観もぜひ書いてまとめたいものです。

それでは今回はここらへんで。

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