人称について
みなさん、お久しぶりです。最近は何をしてお過ごしでしょうか。私は最近小説を書こうとトライしているところ、厳密にいうと再開したいなとずっと考えていて、いよいよ行動に移そうかと考えているところです。そこで皆さんに質問です。みなさんは、小説を書く・読むとき、主格について考えますか。
いざ書き始めの際に、さてどの人称を読者が持つべきなのか、という問いに少し考えさせられました。結論としては、書き手や読み手の自由であり、「べき」という言葉はこの問いにおいて使われるべきではないのだろうと思いますが、これはただ現代における現状であり、現実的な実践的見解でしかありません。では、この問いそのものの重要性について、考えていきたいと思います。
みなさんが日頃読んでいる文章は一人称で書かれているでしょうか。それとも二人称もしくは三人称ですか?論文は、視点を嫌います。論文が好むのは「天の視点」とでもいうべきでしょうか。何かの目を通して見るという行為をきらいます。ただの状況の記述を目標としています。しかし、文章が少しでも好きであれば考えたことがあるかもしれませんが、一切の目を通さずに物事を述することは至極困難極まります。正直私個人としては不可能であるとさえ考えています。
何故か。とても簡単な話です。
私たちは他者を知り得ず、私たち自身のみを知り得るからです。
私たちは私たちのことしか知りません。他者を認知することはできても、その他者に成ることはできません。私たちは一人称のみを可能とするのです。さて、では共感や俯瞰はというと、私たちは他者がどうあり得るのかの予想を行うのみであり、共感や俯瞰はその一つに過ぎないのです。道徳性や共感性の発達理論は多く存在しますが、例えばHoffmanによれば、共感性は、自分自身と他者を区別できない・自他の分化ができていない全体的共感から、相手という存在を理解できる自己中心的共感や役割取得に伴って他者の感情を理解できる共感を経て、他者の人生への共感へと進んでいきます。ここでどうしてもチラつくのはその本人の経験と本人の主格です。私たちは私たちという主格である「我」を持ちます。私たちはその「我」という目のみを持って物事を理解するのです。
「我」は自我意識のような、自分の有る感覚に裏付けられた感覚能力のようなものです。「我」を用いることによってわかることが「他」です。私たちは我がなければ他を感じられず、我を用いて他を感じます。でありますから、我のない叙述は、その人間にとって無感覚であります。
小説はどうでしょうか。「〇〇は△△をした」という文章は本当に目を持たない文章でしょうか。私が論文の視点を「天の視点」と呼ぶ理由はここにあります。一般の地の文章は、その目を天に委ねています。ですが、実際見えているその景色は我によって捉えられていなければその中身を持ちません。何が客体で有るかを捉えられません。そのため、小説は第一人称の主格を用いる他に書きようがないように思えます。というよりむしろ、読み手には我をなくした文章を読むことができないように見える、と記述した方がより伝わるかもしれませんね。
なるほど、最後に、私自身への反論を残してここまでとします。
忘我とはどういった状態でしょうか。
それではまた。
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