社会不適合者とは

「社会適合者」という言葉についてどう思いますか。

「 社会不適合」という言葉、変だと思いませんか。

社会ってなんでしょうか。社会は、社会として人間の各個体の存在に先んじて存在するものでしょうか。私の解釈では、社会とは人間の集合体(あるいは、個体の集合体と言ってもいいでしょう)であるため、個体が社会に先んじていると考えます。私たち個々人が社会を形成しているのです。では、「社会に適合する」とはどういった意味でしょうか。私たちが社会に対してとる行動は「形成する」であって、社会を間接目的語とし、自身を直接目的語とした文章において「適合する」という動詞は使う必要がないように感じます。むしろ、社会がとる動詞として「適合する」が適当であると感じます。

既存の社会に参加する際に「適合する」という言葉を使うことが多いように感じます。例えば「郷にいれば郷に従え」というように、既存のルールを尊重することは重要視される傾向があるように見受けられます。私も否定しません。ですが、自身がその社会に参加することを余儀なくされた場合は話が大きく変わると考えます。その場合の社会は、その個人を構成員として持つことを自動的に前提とされているものです。例えば、日本人として生まれた日本人が、全日本人が構成する社会(必ずしもそれが日本だとは限りません)として位置付けられた社会に参加することは、その本人が選択をして参加したものではなく、前提として参加を決定されているものであるということができます。少し抽象化をしていうと、個人(a)が社会(A)に参加することが社会(A)において前提とされている場合です。この際、その社会(A)は個人(a)の特性をその個人が社会に参加するという前提以上に縛ることはできず、寧ろ、個人(a)が社会(A)の改訂に参加することができる。社会は個人によって作られます。ならば、その社会に適合するのは内部者ではなく外部者であると。そしてその内部者は作成した社会に対して適合するのではなく、作成された社会がその内部者に適合するべきであると。

さて、ここまで、社会がその構成員に対して適合するべきであると述べました。ですが私は、郷にいれば郷に従えという言葉を否定はしないとも述べました。さて、線引きはどこでしょう。これについては明確な基準というものは私の中ではなく、正直持論の限界点とも取れる部分ですが、一つだけ主張しておきたいことには、「自身が参加を余儀なくされた社会」というケースについては私の意見は至極真っ当であると考えることができると思います。では、自身で選んで入ったであろう会社などの仕組みについて、それは個人の自由な選択のもとに成り立っている行為であるがために、会社にその社員に対する適合の義務はないと言えてしまうかもしれません。さあ、どう考えますか。結論から言うと、私は会社にその社員に対する適合の義務があると言えると考えます。なぜか。それは、社員(b)が自主的に参加している会社(B)は社員(b)が参加を余儀なくされている資本主義社会(β)に参加を余儀なくされているからです。社員(b)は資本主義社会を改訂することができ、会社(B)もまた資本主義を改訂することができます。また同時に次の集合関係も成り立つと考えられます。

b ⊂ B ⊂ β

(ここで、この考えを完璧に数式に表す能力が私にあればよかったのですが、如何せん私も勉強中であるため、また可能になり次第ということで、とりあえずは言葉で説明しますね。)

前回私がお話しした「生得的不平等」がここで適用されるならば、社員(b)は資本主義社会において資本主義的活動を行うことを余儀なくされています。そこには、会社勤めや売買行動などの経済行動が含まれており、社員(b)が会社(B)に勤めることは完全に自由な行動と呼べるか怪しいものでもあります。実際に自由であるか否かは皆さんも考えていただきたいのですが、ここでは、完全なる自由に基づいた行動でないと考えます。とすれば、会社がその社員に対して変化の義務を少し担うことになってもおかしな話ではないように感じませんか?

最後、論の詰めが甘いことは承知の上ですが、とりあえず、自由と義務と責任の関係について社会と個人、集団と個人のスケールで考え直してみるのも面白いのではないか、という提案でした。

そして最後に、社会に参加を余儀なくされたところで、ある程度の年齢と判断能力があれば、その社会から抜け出すことも可能である場合がある、という要素も少し考えてみてください。ここでの判断能力の程度と有無はとてつもなく重要な要素の一つです。議論の際は忘れずに。

それでは、また。

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