生得的不平等


 不平等にも種類があると思いませんか?自身の業とも言えるような不平等であったり、他者からの圧によって受ける不平等であったり、と。日々の不満が溜まっていればいるほど、これは不平等だな、とか社会に迎え入れてもらえないという居場所のなさに苛まれることもあると思います。その中でも今回は「生得的不平等」について思うことを書こうかなと思います。

 「生得的不平等」は文字通り、生まれつきに(生得的に)持つ不平等です。(この言葉が正式に存在しているのかは知りませんが、とりあえずここではそう呼ぶことにします。)即座に思いつくものには、身体的障碍であったり、精神的障碍が多いと思います。これらは、五体満足という言葉が差別用語とされているのか分かりかねますが、一般的に大多数が持ち合わせて生まれてくるであろう要素を持たず、ないし持ちすぎて生まれてくることで起こる不平等です。ここで私が思うことに、「生得的」という言葉が何を意味するかについて私たちは社会福祉的に曖昧な理解しかしていないということがあります。さて、いくつか例を挙げます。

  • 一人の女性が一つの手に指を4本持った状態で生まれてきたとします。その女性はピアノを弾く際に他の大多数の指を5本持つ人間ならば容易に弾けるであろう和音を弾けないとします。これは生得的不平等でしょうか。
  • 一人の男性が、幼少期にピアノを習いたいと親に頼み込んだ際に、親が「そんな女々しい習い事などせずにスポーツをしろ」と言われ、そのままピアノに指一本触れず育ってきたためにピアノが弾けないとします。これは生得的不平等でしょうか。
  • 一人の女性が、幼少期からピアノを習いたかったが、家庭が貧乏であり、ピアノを習うお金もなくピアノを弾く経験もできず、そのままピアノに指一本触れず育ち、ピアノが弾けないとします。これは生得的不平等でしょうか。
  • 一人の女性が、ピアノという言葉さえ聞いたこともなく過ごしてきたために、ピアノに興味も持たず、触れることもなく、ピアノが弾けないとします。これは生得的不平等でしょうか。

ここではピアノという、生活に最低限必要とは言い難いものを取り上げたために少し不平等という言葉の意味する範囲がずれてしまっているかもしれません。また、ピアノが弾けないという言葉が意味する、不可能性の幅も広く、違和感を感じるかもしれません。ですが、とりあえずこれらの例で見て欲しいものは、どこまでを「生得的」とするかという問題です。内容を変えながら他の例も挙げていきますね。

  • 生まれつき身長が低く、CAになりたかったが、仕事に必要とされる身長基準を満たすことができなかったためにその夢を諦めなければならなかった。
  • 田舎の農家の息子として生まれたために、その後の人生をその村で過ごし、家業を手伝わなければならず、大学に行くことができなかった。
  • 貧困家庭に生まれたため、仕事をしなければならず、高校に通うお金も時間も足りず中退しなければならなくなった。
  • 虫歯ができやすいために、他の多くの人よりもより高頻度で歯科にかからなければならず、出費がかさみ、貯金ができない。
  • 親が新興宗教に嵌っているために、子供である本人もその宗教の教義に準ずる必要が出る。または準ずるよう矯正される。

などなど。どうでしょうか。これは不平等ではないだろとか、不平等だとしても個人の努力次第だろとか、色々意見はあると思います。私も断定的にこれらを全て生得的不平等とする、と断言しているわけではなく、ただただ、これらの事例をどう捉えることができるか、という疑問を呈しているだけです。皆さんはこれらは不合理で不都合で不平等だと思いますか。テレビで耳にした言葉の中に「これに関して生まれは関係ないんです。知っていればできることなので」というものがありました。果たしてそう断定することができるでしょうか。知る機会もまたその本人の生まれた環境によるものではないでしょうか。本人の生まれる環境は生まれる本人には操作しようのないもの、擬似的に生得的なものであると考えることもできます。その擬似的生得条件は、どのようにして改善されるべきでしょうか。そして、その責任はどこに帰属するでしょうか。擬似的生得的不平等は生得的不平等と同一視しても良いのでしょうか。

 不平等を語る際に、何を踏まえて語るべきか。私の意見では、少なくとも、その事象そのものと、その責任の帰属、そしてその改善についてが語られることが多いように見受けられます。では生得的不平等についてその責任と改善についても考えてみたいと思います。私は社会学者ではないので、意見としては薄いものになりますが。

 この生得的不平等・擬似的生得的不平等の2つについては、責任の追求は考えやすいものであると思います。なぜなら、この不平等を受けている本人はその不平等である条件について何らかの操作を行うことができないため、その責任を本人に追求することは困難であると考えることが妥当であると考えるからです。それでは、どこに責任を見出すか。その不平等を不平等としてしまっている社会全体、ないしその福祉システムであると考えることができるのではないでしょうか。本人が生まれたこと自体がその責任だということもできるのかもしれませんが、それについても本人が生まれるかどうかは本人の意思にはどうしようもありません。生きることに責任を追求することは、優生思想に繋がりかねません。ではその社会に責任をみて然るべきではないでしょうか。その責任に対する改善については、その不平等がどのようなものかによると考えることができます。金銭的な問題であるか、家庭環境の問題であるか、雇用形態の問題であるか、人権的な問題であるか。問題によって対処の仕方は変わりますが、その問題の対処はやはり社会福祉が主として行うべき領域が多いように見受けられます。

 生得的不平等はより深い概念であり、ここで簡単にまとめただけでは語りきれず、また、議論の余地も多いと思われます。そのため、このテーマについてより多く語る場面が必要であると感じています。ご意見があればお待ちしております。


それでは、また。

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